太宰治「女生徒」を読んで
今日は家から出ると凍死してしまうことが予想されるので、家でぬくぬくと過ごしております、マサオです。
今日も本の紹介をしていきましょう!!!
って、また太宰治かい!ヾ(・・;)ォィォィ
と思われた方、そうです。
しつこく太宰治を紹介していきます。
読みやすいんですもん……。
太宰って、女性の心理描写をリアルに表現するのがすごい上手いんですよね。
そしてこの作品の特徴は、
太宰治の完全オリジナル作品ではない。
というところですかね。
もちろん太宰の名で刊行されたものなんですが、元は有明 淑(ありあけ しず)という太宰ファンが3ヶ月の日記なんです。
ちなみに太宰と淑は面識ない面識がなかったようです。
ただ、ファンというだけで3ヶ月の日記を送る淑………
恐るべし。(いろんな意味で)
この日記を1日の出来事に凝縮したのが、この「女生徒」になっています。
この「女生徒」は、ある一人の少女(モデル:淑)の一日を、朝目覚めてから夜眠りにつくまで、少女の目線で描かれたものです。
そのため、ストーリー性はほぼ皆無です。とりとめもないことが中心となっていて、当時の少女のTwitterのような感じですね。
にしては少女の内面がリアルに抉り出されているので、そこはやはり太宰の腕なのかなぁと思います。
主人公の「私」は朝目覚めると、かくれんぼの時に見つかってしまったときの照れ臭さ、腹立たしい感じ、あるいは、箱を開けると小さい箱があり、その中にさらに小さい箱があり、8つ目くらい開け続けると…何もない。その空っぽの状態に似ているといいます。
朝は一番虚無。
いきなり厭世的な文章から始まります。
一日で"嫌な自分に気付いてしまう"というのもまたおもしろいところ。
「ゼスチュアといえば、私だって、負けないでたくさんに持っている。私のは、その上、ずるくて利巧に立ちまわる。本当にキザなのだから始末に困る。「自分は、ポオズをつくりすぎて、ポオズに引きずられている嘘つきの化けものだ」」
自分は他人に上部だけのポーズを作っていて、その上っ面を自分で気付いてしまうシーン。
「つくづく、「自然になりたい、素直になりたい」と祈っているのだ。本なんか読むの止めてしまえ。観念だけの生活で、無意味な、高慢ちきの知ったかぶりなんて、軽蔑、軽蔑。自分には矛盾があるのどうのって、しきりに考えたり悩んだりしているようだが、おまえのは、感傷だけさ。自分を可愛がって、慰めているだけなのさ。それからずいぶん自分を買いかぶっているのですよ」
「だしぬけに、大きな声が、ワッと出そうになった。ちぇっ、そんな叫び声あげたくらいで、自分の弱虫を、ごまかそうたって、だめだぞ。」
自己嫌悪にまみれていて、自分をいやに悲観的に分析しています。彼女は「自分は醜いんだ。」と感じています。
また、"上部を取り繕う自分"だけではなく"女である自分"にも嫌気がさしてきます。
学校の隣の席で、キン子という少女に、
「私のことを、あたしの一ばんの親友です、なんて皆に言っている。可愛い娘さんだ。一日置きに手紙をよこしたり、なんとなくよく世話をしてくれて、ありがたいのだけれど、きょうは、あんまり大袈裟にはしゃいでいるので、私も、さすがにいやになった。」
と言って、嫌悪します。
妊娠している女性に対しては、「ああ、胸がむかむかする。」という感情を抱きます。
また、ふとこんなことを思います。
「けさ、電車で隣り合せた厚化粧のおばさんをも思い出す。ああ、汚い、汚い。女は、いやだ。自分が女だけに、女の中にある不潔さが、よくわかって、歯ぎしりするほど、厭だ。」
女というものの醜さが目に見えて、世の中が嫌になってくるのです。汚いと思えてくるのです。しかし…
「私だって、ちっとも、この女のひとと変らないのだ。」
自分も女なのです。そのことにも気付いてしまい、さらに自分が嫌になってしまいます。そして、自分にもこういうところがあるという自己嫌悪。
他にも、母親に対しての複雑な気持ちも描かれています。
店を切り盛りする母は客に対して媚びへつらうばかり。そんな母を
「お客さんと対しているときのお母さんは、お母さんじゃない。ただの弱い女だ。お父さんが、いなくなったからって、こんなにも卑屈になるものか。情なくなって、何も言えなくなっちゃった。」
と、情けなく感じます。
「お母さんたら、ちっとも私を信頼しないで、まだまだ、子供あつかいにしている。」
母に対して多少の憎しみも感じているのではないでしょうか?
父が死んで、自分が支えてやらなければならないのは分かっているけど……
しかし、大変な日々を過ごす母は、時間の合間を縫って映画に連れて行ってくれます。
そんな母に、
「大事にしよう、と思う。」
「お母さんを、こっそり恨んだことを、恥ずかしく思う。ごめんなさい、と口の中で小さく言ってみる。」
「私自身、くるしいの、やりきれないのと言ってお母さんに完全にぶらさがっているくせに、お母さんが少しでも私に寄りかかったりすると、いやらしく、薄汚いものを見たような気持がするのは、本当に、わがまますぎる。お母さんだって、私だって、やっぱり同じ弱い女なのだ。」
母を受け入れ、少女は大人への階段を登り始めるのです。母のことを恨めしく思ったり、感謝したくなったり、両極の感情の狭間で揺れる少女のリアルな内面描写です。
また、女性はともかく男性でも共感できる点がたくさんありますよね。
母親に頼り切ってるくせに、母親から話しかけられると嫌悪してしまうというのは、現代の中学生も同じではないでしょうか?
それってわがままですよね。少女はそれに気付きます。
そしてこの作品の驚くべきは、この作品は太宰が書いたということ。モデルはありますが、この女性の心理描写をありのまま描き出したのが、男である太宰治なのです。
なぜこんなにも女性の心理を描くのが上手なんでしょうかね…。
思春期の女学生の心の揺れ。それを妙にリアルに表現している一冊です。
●上部を取り繕う自分。
●女であることに嫌気がさす自分。
●母親とのやりとりで、一つ大人になっていく自分。
女性はもちろん、男性にもおすすめの本です。
ぜひ、ご一読を!!
「明日もまた、同じ日が来るのだろう。幸福は一生、来ないのだ。それは、わかっている。けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。」