国語科教員の「太宰治」と文豪たちのブログ

國學院大學日本文学科卒業の現国語科教員マンが日本の文学についての知識をお届けします。神話・随筆・物語…単純に本の紹介なんかもします。日本語に関する記事も載せていこうと思います!ぜひ読んでね!

太宰治「駆け込み訴え」を読んで

こんばんわ。マサオです。



クリスマス……が一日過ぎましたねぇ……笑





今回はクリスマスに因んだものを紹介していこうと思います。





そもそもクリスマスとは?



イエス・キリストの誕生を祝う祭であり、降誕祭ともいう。あくまで誕生を祝う日であって、イエス・キリストの誕生日ではない。
(Wikipediaより)




え!!キリストの誕生日かと思ってた!!(今さら)



イエス・キリストの誕生日が12月25日とする資料はどこにもなく、アレクサンドリアのクレメンスという人は5月20日と推測しているそう。




5月20日!?全然違うじゃん……







バリバリ梅雨の時期じゃん……





ま、そんなことは置いといて、


クリスマスといえば、イエス・キリスト


イエス・キリストといえば…?









そうだね、プロテ…






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「駆け込み訴え」だね!




まさにイエス・キリストとその弟子のことが描かれた短編小説です。



そして主人公は、裏切り者の代名詞、イスカリオテのユダ




この「駆け込み訴え」では、キリストに対するユダの行き過ぎた愛憎が描かれています。




正直ヤンデレ?メンヘラ?と思うような描写もたくさんあります。




「あの人は、酷い。酷い。はい。いやな奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。」←冒頭文


「私はきょうまであの人に、どれほど意地悪くこき使われて来たことか。」


「あの人に一体、何が出来ましょう。なんにも出来やしないのです。私から見れば青二才だ。」



このように、序盤はキリストをだいぶ憎んでいる様子が窺えます。







なぜ憎んでいたのか??







ユダは何度もキリストを庇った経験があり、ほかの弟子たちも含めて日常衣食の購求までしていたようです。


それにも関わらず、キリストは自分を見てくれない。




自分がこんなに愛しているのに、キリストは自分を愛してくれない。



「たまには私にも、優しい言葉の一つ位は掛けてくれてもよさそうなのに、あの人は、いつでも私に意地悪くしむけるのです。」



なんだかこの感情、幼稚な子どもみたいですけど、分からなくもないですね。
自分がこんなにしてあげてるのに!というものが、ユダにもあったようですが、現代にも通じるところがありそうです。






中盤になると、憎しみではなく、愛する心が再び芽生えてきます。



「私はあなたを愛しています。ほかの弟子たちが、どんなに深くあなたを愛していたって、それとは較べものにならないほどに愛しています。誰よりも愛しています。」

「私は、ただ、あの人から離れたくないのだ。ただ、あの人の傍にいて、あの人の声を聞き、あの人の姿を眺めて居ればそれでよいのだ。」













BLかな??



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かと思えば、私は嫌われています〜〜あの人をだれか殺してください〜〜というメンヘラモードに突入。
















救いようがねぇ!!┐(´ー`)┌ヤレヤレ





愛と憎しみは表裏一体なんですね…。





そしてあるとき、大事件が起きてしまいます。



キリスト一行の饗宴の最中に、マリヤという百姓女が、ナルドの香油をキリストの頭に誤ってぶっかけてしまうのです。




怒り狂うユダに対して、落ち着き払っているキリスト。




そして、マリヤを慰めるキリストの頬がほんのり赤く染まっていることにユダは気付いてしまいます。





「あの女が、私からあの人を奪ったのだ。」


「ああ、ジェラシィというのは、なんてやりきれない悪徳だ。」




"ジェラシィ"


つまり"嫉妬"




全ての悪の根源ですね。






自分を見てくれない上に、嫉妬に荒れ狂うユダ。



(愛着障害ですね……)







そんなユダは突飛なことを考え始めます。



「いっそ私の手で殺してあげようと思いました。」



「あの人を殺して私も死ぬ。」
















はい、もう完璧にヤンデレです。







疑いようもなくヤンデレ





「病んでる」と「デレ」の合成語である「ヤンデレ」ですわ。





そんな時に、ある情報が。






祭司長たちが、イエス・キリストを殺す決議を下して、キリスト一行の居場所を知らせたものには銀三十を与えるということ。






キリストを自ら殺そうと決意をしたユダは、居場所を知らせてやろうという意志に変わります。







それはさも、自分は正しいことをしているという感情なのが恐ろしいところ。




純粋な愛ゆえであって悪意ではないと語ります。




いつ報告してやろうかと思っているところ、一行はある料理屋の二階で祭りの宴会をすることに。




そこで、キリストが物憂げな口調で

「おまえたちのうちの、一人が、私を売る」


と顔を伏せ、呻くような声で呟きます。





キリストには全てお見通しだったわけです。





「ほんとうに、その人は、生れて来なかったほうが、よかった」




とまで言われます。愛してた人にこんなこと言われるなんて……


これは太宰の創作ではなく、本当にキリストが言ったそうですね。







ユダが怒り狂うことは想像に難くないですね。


キリストに対しての言葉が

「あの人」「あの方」

から

「あいつ」「(嫌な)奴」



に変わっていきます。







自分はあいつを愛していなかったし、最初から金目当てだったと自分に言い聞かせ、「ざまぁみろ!」と言って終わります。






最初から言っていますが…














なんていうメンヘラっぷり……





ここでストーリーは終わるのですが、実際のユダはこのあと懺悔の念に苦しみ、首吊り自殺をしたそうです。


キリストはもちろん磔刑に処せられます。








キリストとユダに関しては聖書や福音書という書物の上でしか人物を知り得ませんが、このような物語形式になると、一気にリアリティが増して現実味を帯びてきますよね。

そこもこの作品のいいところかなぁと。


作品自体は疾走感溢れる語り口なので、ささっと読めちゃうかなと思います。



キリスト一行についても詳しく知ることができるきっかけになるかな?






と、いうことで


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


ぜひご一読を!!





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