国語科教員の「太宰治」と文豪たちのブログ

國學院大學日本文学科卒業の現国語科教員マンが日本の文学についての知識をお届けします。神話・随筆・物語…単純に本の紹介なんかもします。日本語に関する記事も載せていこうと思います!ぜひ読んでね!

太宰治「駆け込み訴え」を読んで

こんばんわ。マサオです。



クリスマス……が一日過ぎましたねぇ……笑





今回はクリスマスに因んだものを紹介していこうと思います。





そもそもクリスマスとは?



イエス・キリストの誕生を祝う祭であり、降誕祭ともいう。あくまで誕生を祝う日であって、イエス・キリストの誕生日ではない。
(Wikipediaより)




え!!キリストの誕生日かと思ってた!!(今さら)



イエス・キリストの誕生日が12月25日とする資料はどこにもなく、アレクサンドリアのクレメンスという人は5月20日と推測しているそう。




5月20日!?全然違うじゃん……







バリバリ梅雨の時期じゃん……





ま、そんなことは置いといて、


クリスマスといえば、イエス・キリスト


イエス・キリストといえば…?









そうだね、プロテ…






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「駆け込み訴え」だね!




まさにイエス・キリストとその弟子のことが描かれた短編小説です。



そして主人公は、裏切り者の代名詞、イスカリオテのユダ




この「駆け込み訴え」では、キリストに対するユダの行き過ぎた愛憎が描かれています。




正直ヤンデレ?メンヘラ?と思うような描写もたくさんあります。




「あの人は、酷い。酷い。はい。いやな奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。」←冒頭文


「私はきょうまであの人に、どれほど意地悪くこき使われて来たことか。」


「あの人に一体、何が出来ましょう。なんにも出来やしないのです。私から見れば青二才だ。」



このように、序盤はキリストをだいぶ憎んでいる様子が窺えます。







なぜ憎んでいたのか??







ユダは何度もキリストを庇った経験があり、ほかの弟子たちも含めて日常衣食の購求までしていたようです。


それにも関わらず、キリストは自分を見てくれない。




自分がこんなに愛しているのに、キリストは自分を愛してくれない。



「たまには私にも、優しい言葉の一つ位は掛けてくれてもよさそうなのに、あの人は、いつでも私に意地悪くしむけるのです。」



なんだかこの感情、幼稚な子どもみたいですけど、分からなくもないですね。
自分がこんなにしてあげてるのに!というものが、ユダにもあったようですが、現代にも通じるところがありそうです。






中盤になると、憎しみではなく、愛する心が再び芽生えてきます。



「私はあなたを愛しています。ほかの弟子たちが、どんなに深くあなたを愛していたって、それとは較べものにならないほどに愛しています。誰よりも愛しています。」

「私は、ただ、あの人から離れたくないのだ。ただ、あの人の傍にいて、あの人の声を聞き、あの人の姿を眺めて居ればそれでよいのだ。」













BLかな??



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かと思えば、私は嫌われています〜〜あの人をだれか殺してください〜〜というメンヘラモードに突入。
















救いようがねぇ!!┐(´ー`)┌ヤレヤレ





愛と憎しみは表裏一体なんですね…。





そしてあるとき、大事件が起きてしまいます。



キリスト一行の饗宴の最中に、マリヤという百姓女が、ナルドの香油をキリストの頭に誤ってぶっかけてしまうのです。




怒り狂うユダに対して、落ち着き払っているキリスト。




そして、マリヤを慰めるキリストの頬がほんのり赤く染まっていることにユダは気付いてしまいます。





「あの女が、私からあの人を奪ったのだ。」


「ああ、ジェラシィというのは、なんてやりきれない悪徳だ。」




"ジェラシィ"


つまり"嫉妬"




全ての悪の根源ですね。






自分を見てくれない上に、嫉妬に荒れ狂うユダ。



(愛着障害ですね……)







そんなユダは突飛なことを考え始めます。



「いっそ私の手で殺してあげようと思いました。」



「あの人を殺して私も死ぬ。」
















はい、もう完璧にヤンデレです。







疑いようもなくヤンデレ





「病んでる」と「デレ」の合成語である「ヤンデレ」ですわ。





そんな時に、ある情報が。






祭司長たちが、イエス・キリストを殺す決議を下して、キリスト一行の居場所を知らせたものには銀三十を与えるということ。






キリストを自ら殺そうと決意をしたユダは、居場所を知らせてやろうという意志に変わります。







それはさも、自分は正しいことをしているという感情なのが恐ろしいところ。




純粋な愛ゆえであって悪意ではないと語ります。




いつ報告してやろうかと思っているところ、一行はある料理屋の二階で祭りの宴会をすることに。




そこで、キリストが物憂げな口調で

「おまえたちのうちの、一人が、私を売る」


と顔を伏せ、呻くような声で呟きます。





キリストには全てお見通しだったわけです。





「ほんとうに、その人は、生れて来なかったほうが、よかった」




とまで言われます。愛してた人にこんなこと言われるなんて……


これは太宰の創作ではなく、本当にキリストが言ったそうですね。







ユダが怒り狂うことは想像に難くないですね。


キリストに対しての言葉が

「あの人」「あの方」

から

「あいつ」「(嫌な)奴」



に変わっていきます。







自分はあいつを愛していなかったし、最初から金目当てだったと自分に言い聞かせ、「ざまぁみろ!」と言って終わります。






最初から言っていますが…














なんていうメンヘラっぷり……





ここでストーリーは終わるのですが、実際のユダはこのあと懺悔の念に苦しみ、首吊り自殺をしたそうです。


キリストはもちろん磔刑に処せられます。








キリストとユダに関しては聖書や福音書という書物の上でしか人物を知り得ませんが、このような物語形式になると、一気にリアリティが増して現実味を帯びてきますよね。

そこもこの作品のいいところかなぁと。


作品自体は疾走感溢れる語り口なので、ささっと読めちゃうかなと思います。



キリスト一行についても詳しく知ることができるきっかけになるかな?






と、いうことで


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


ぜひご一読を!!





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森鷗外「高瀬舟」を読んで

こんばんわ。


なんか毎回19〜21時に更新してるなぁと思う今日この頃。


別に意識はしておりませんが、書き終わるのがちょうどこの時間帯なんですよね。





さて、本日は森鷗外の「高瀬舟」を紹介。




森鷗外といえば「舞姫」を高校生の頃に読んだのですが…




当時の私には難しかったですね…笑


冒頭文が、

「石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと靜にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。」


ですよ。





読みづらっ!!!!!!(ノ゚ο゚)ノ オオオオォォォォォォ-





ということで、当時は最後まで読み切れず、鷗外を敬遠していた過去があります。




ただ、これからご紹介する「高瀬舟」は全く読みづらさはございません。



むしろ読みやすいといっても過言ではないと思います。




文体、リズム、展開、どれを取っても難しいものはございません。





さぁさっそくご紹介。





あらかじめ申し上げますと、この「高瀬舟」のテーマは、

◎財産
安楽死

です。




鷗外自身が「高瀬舟縁起」という「高瀬舟」の解説書でこう述べているのです。






あらすじは以下の通りです。


徳川時代、京都の罪人が島流しを申し渡されると、高瀬舟に乗せられて、大阪へ行くことになっていました。


当時、暇乞いといって、罪人の親類が大阪まで見送ることができることになっていました。



大阪まで行く道中、この罪人と親類は夜通し身の上を語り合うというのが常でしたが、30歳ばかりになる「喜助」という男は、親類も連れずに大阪まで島流しをされることとなりました。



罪は「弟殺し」。








喜助の護送を命じられた役人の羽田庄兵衛(しょうべえ)は、驚きました。



島流しというと、悲惨な境遇に嘆き、自分の行く末を案じて、涙を禁じ得ないものですが、この喜助はというと、見るからに口笛や鼻歌を歌い出しそうな様子なのです。



そこで、堪えきれずに聞いてみます。

「喜助。お前何を思っているのか。」


「己(おれ)はこれまでこの舟で大勢の人を島へ送った。それは随分いろいろな身の上の人だったが、どれもどれも島へ往くのを悲しがって、見送りに来て、一緒に舟に乗る親類のものと、夜通し泣くに決まっていた。それにお前の様子を見れば、どうも島へ往くのを苦にしてはいないようだ。一体お前はどう思っているのだい。」




喜助は、なぜ島流しという罰を楽しんでいたのでしょうか。




理由は、


これまで大金を持ったことがなく、毎日の生活もギリギリで困っていたが、島流しの際に二百文もらえたので嬉しい。



というもの。


「わたくしは今日まで二百文と云うお足(金)を、こうして懐に入れて持っていたことはございませぬ。」

「わたくしはこの二百文を島でする仕事の本手にしようと楽しんでおります。」




一方、庄兵衛は役人として働いても家計は苦しいままで手一杯の生活。



お金持ちの妻がいるのですが、この妻が自分の知らぬ間に、家計の足りない部分の帳尻を合わせてくれていました。



庄兵衛はそのことに気付いているのですが、負い目に感じており、知らんぷりをしています。




そんな生活に対して
「そこに満足を覚えたことは殆ど無い。」
と述べています。


庄兵衛はこのような身の上なので、喜助の姿に驚きと敬意を持って見つめます。





喜助は二百文でも

「生れてから知らぬ満足を覚えた」のに対して、



庄兵衛は、自分にはないもの欲しがります。
人の欲には限界がありませんからね。



そんな喜助の生き方に感銘を受けたのでしょう。



庄兵衛はさらに、弟殺しをした理由を聞きます。



喜助と弟とは二人三脚で歩んできましたが、不治の病を悩む弟は、兄に楽をさせたいという理由で自殺を図りました。



しかし、死ぬことができなかったのです。



そこで、苦しむ弟は「一思いに殺してくれ」と懇願します。




兄である喜助は思いっきり殺してあげたのです。




それをたまたま近所の婆さんに見られ、島流しに…という流れ。




庄兵衛はこの話に疑問を抱きます。





これは人殺しだろうか?


「喜助はその苦を見ているに忍びなかつた。苦から救って遣ろうと思って命を絶った。それが罪であろうか。殺したのは罪に相違ない。しかしそれが苦から救うためであったと思うと、そこに疑が生じて、どうしても解けぬのである。」




なんだか腑に落ちないまま、ストーリーは終わります。




まぁ確かに、答えがあるような課題ではないですからね。



ただ鷗外は、「高瀬舟縁起」でこうまとめています。


「これはそう容易に杓子定木で決してしまわれる問題ではない。」

とした上で、



「たとい教えのある人でも、どうせ死ななくてはならぬものなら、あの苦しみを長くさせておかずに、早く死なせてやりたいという情は必ず起こる。」



喜助の感情は至極当然のものであり、人殺しというには忍びないという意見。




「従来の道徳は"苦しませておけ"と命じている。」



さぁ、みなさんは安楽死に対して肯定的ですか?否定的ですか?




答えはありませんが、「高瀬舟」を読むことで、安楽死に対する考えががらりと変わるかもしれません。



ここまでお読みくださった方、ありがとうございました。



高瀬舟」、ぜひご一読を!!


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夏目漱石「坊っちゃん」を読んで

みなさんお久しぶりです。マサオです。




しばらく更新できなくて申し訳ないです。



仕事が一通り落ち着きましたので、これからはもっと本を読んで、毎日更新目指しますよ!




さて、今日は夏目漱石の「坊っちゃん」から感じたことを。




あらすじというより、ビックリしたことと共感したことを書いていきたいと思います。




この「坊っちゃん」は、主人公「おれ」を指しているのですが、この主人公は数学教師として四国に赴任します。




教員!!



ということで、話に入りやすい作品。





ただこの作品、教師としての話、子どもとの触れ合いではなく、その周りの人たちとのドタバタがメインです。




少なからず教員としての話もあるので、あえてそこにフォーカスしてみたいと思います。




○まずは共感したこと。

坊っちゃん」の中でこんな話があります。


主人公「おれ」がある蕎麦屋を訪れ、蕎麦と天麩羅(てんぷら)を4杯平らげるのですが、そこには学校の生徒がいました。



「翌日何の気もなく教場へはいると、黒板一杯ぐらいな大きな字で、天麩羅先生とかいてある。おれの顔を見てみんなわあと笑った。」




「次の教場へ出ると一つ天麩羅四杯なり。但し笑うべからず。と黒板にかいてある。」




「次の教場へ出たら天麩羅を食うと減らず口が利きたくなるものなりと書いてある。どうも始末に終えない。」






町の蕎麦屋に行って、蕎麦と天ぷらをたらふく食べただけで、子どもの標的に。こちらからしたら、自分の金で蕎麦を食べて何が悪いと思いますよね。






この状況、痛いほどよくわかります。





私も、勤めている場所の近くのイオンで帽子を買ったのですが、それを生徒に見られていたらしく……



翌日から子どもに幾度となく質問責めに遭いました。





いや、帽子買っただけで…と思うのですが、生徒はそういう理屈は関係ないんですよね。



面白いと思ったことが、翌日の話のネタになるのです。特に教員という職業は標的にされやすい。




黒板に書かれるとかはないですけどね。笑




しかし私はその後、近くの町で買い物をするのをぱたりとやめました。





坊っちゃん」ではその後も、住田という町に行き、温泉帰りに団子を食べたのですが……


「今度は生徒にも逢わなかったから、誰も知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場へはいると団子二皿七銭と書いてある。実際おれは二皿食って七銭払った。どうも厄介な奴等だ。」


再びネタにされることとなります……





私も土日、部活で出勤したときに、カップラーメンを職員室で食べていたのですが…






それを部員に見られ、イジられたことがあります。




お前らのために休日返上して、働いとるんじゃ〜〜!!と思ったことがあります。



何気ないシーンですが、同じ職業として、共感せざるを得ないところですね。




いつの時代も、子どもは変わりませんね ┐(-。ー;)┌ヤレヤレ




○次にびっくりしたこと。



「いくら月給で買われた身体だって、あいた時間まで学校へ縛りつけて机と睨めっくらをさせるなんて法があるものか。しかしほかの連中はみんな大人しくご規則通りやってるから新参のおればかり、だだを捏るのもよろしくないと思って我慢していた。帰りがけに、君何でもかんでも三時過ぎまで学校にいさせるのは愚かだぜと山嵐に訴えたら…」




さ、三時…??



この当時は部活がないにしても、三時に帰れないと文句を言うのか…?



この頃の教員は、今の外国の教員と同じように、授業だけすれば問題ないものなのか?



そのかわり宿直というものが輪番制であるようですが、それにしたってなんと環境がよろしいことか。



確かに、いくらお金をもらっていても勤務時間を超えて机と椅子に縛り付けるなんてアホらしい。




そう言える自分でありたい……。笑








以上、教員という立場から見た「坊っちゃん」でした。







作品自体は、昔の文学とは思えないほど軽快なテンポで物語が進み、ボリュームも多くなく、言葉自体も読みやすいです。



ライトな分量と、テンポの良さで、漱石の作品にしてはだいぶ読みやすいと思いますので、ぜひ一読を!!!






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中島敦「名人伝」を読んで

こんばんわ。マサオです。




突然ですが、みなさんはなにか極めようとしていることってありますか??



スポーツ?お酒?語学?ガンプラ?仕事?ゲーム?美容?ブログ?





うんうん…!!





やはりブログと答える人が多いですねぇ!(空耳)



これから紹介するのは、"弓"を極めようとした紀昌(きしょう)という人のお話。



天下第一の弓の名手となるべく、紀昌は、飛衛(ひえい)という人物の元に弟子入りします。




ここから、飛衛による厳しい特訓が…!!!








始まったわけでもないのです。


飛衛はまず







「瞬きをするな」という訓練をさせます。



まぁ、ある意味厳しいか。笑



そこで紀昌は、2年もの間、瞬きをしない訓練を行います。瞼はついに、瞬きをする意義、使う筋肉を停止させます。



恐るべし。



寝ているあいだでさえ、紀昌の瞼が閉じられることはなかったそうです。


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こんな感じですかね??狂気ですよ。



さらには、まつ毛とまつ毛の間に蜘蛛の巣が張るほどに。





いや…






汚なっ!!!!!!笑





まぁ、でもそこまで極めた紀昌の粘り強さが半端ではないですよね。





そこで、自信を得た紀昌は、再び飛衛の元を訪ね、この旨を報告しました。





そしたら次は、

「瞬かざるのみではまだ射を授けるに足りぬ。」

と言われます。




ごもっともです。瞬きしないだけでは弓は上達しません。




そして次は、

「視ろ!」という訓練をさせます。笑





小さいものを見続けて、それが大きいもののように思えてきたら、また来いというわけです。





無茶苦茶すぎ(・Д・)








そこで紀昌は、虱(しらみ)をひたすらみ睨み続けることにしたのです。







気持ち悪すぎて自分には耐えられないです……。






そうすると、どんどん大きく見えるようになってきます。



そして、三年虱を睨み続けます。








もう、頭おかしいって。






そうすると、(やはり頭がおかしくなったのか)虱は馬の大きさくらいに見えるようになってきたのです。





そこで、よし!と躍起になった紀昌が外に出てみると、



「人は高塔であった。馬は山であった。豚は丘のごとく、」



あらゆるものが大きく見え、さらにいい気になった紀昌は、虱に向けて矢を射ると、その矢は虱の心臓を貫いたそう。




ちなみに、
虱は2〜4mmだそうです。







心臓は1mm以下でしょうね。


その心臓を貫けるって……












矢ちっちぇーな!!!!!!







飛衛にこのことを報告すると欣喜雀躍、弓の奥義をついに伝授し始めます。





紀昌はそれからどんどん上達していき、ついに!!




妻と喧嘩したときに、妻の目を射ったが、
「矢は妻の睫毛三本を射切ってかなたへ飛び去ったが、射られた本人は一向に気づかず、まばたきもしないで亭主を罵り続けた。」







いや、射られたほうが気付かないってのもすごいけど……










妻と喧嘩しただけで妻を矢で射ようとする紀昌のサイコパスっぷりが印象に残る………




そんなこんなで弓を極めた紀昌は、飛衛の元を離れ、甘蠅(かんよう)老師という人物の元へ。




どうやらその人物が天下第一の弓の達人であるらしい。甘蠅からすれば、紀昌や飛衛の弓はまだまだ子どもの遊びだという。




そして甘蠅の元を訪れ、腕を見せつけるために、渡り鳥を射落とします。





「一通り出来るようじゃな、と老人が穏やかな微笑を含んで言う。だが、それは所詮射之射というもの、まだ不射之射を知らぬと見える。」






射の射とは、弓を用いて射ること。






随分当たり前ですよね。







しかし、不射の射とは、弓を用いずに射ることなんです。


















ん???







そこで甘蠅は、空に飛んでいる一匹の鳥を、無形の弓で射落としたのです。



弓も矢もありませんが、見えざる弓と矢で射落とします。





これには紀昌もビックリ仰天。






9年ものあいだ、この甘蠅の元で修行することに。






そして故郷に戻ってきた紀昌に人々はこれまたビックリ。




あの負けず嫌いな紀昌の面影はなく、






ただただ無表情。



「木偶のごとき顔は更に表情を失い、語ることも稀となり、ついには呼吸の有無さえ疑われるに至った。」






その後、40年後に紀昌は亡くなるのですが、弓のことを一切口にすることがなかったそう。


それだから、弓矢の神業を人々に見せるはずもなく。






そのまま特別な武勇伝もなく死んでいく紀昌。













(せっかく修行したのに)





しかし、物語は終わりません!!








最後にこんな話が伝わっています。




紀昌が、ある友人宅に招かれて行ったところ、あるものが目に入りました。







「なんか見たことある……でも名前も用途も思い出せない……」




そこで、友人に聞いたわけです。








「これ何??」って。






友人は、狼狽してこう叫びます。





「ああ、夫子が、――古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓という名も、その使い途も!」







不射と射を極めすぎたが故に(?)、弓矢という存在も使い道も忘れ果ててしまっていたのです。






こんなお話ですね。

文章自体は少し古臭いので、読みづらいところがあるかもしれませんが、本質を読み損なうことありませんので、ご安心ください。



展開も展開も見事。さくさく読める上に、短編小説なので、一日の空き時間に十分読めます!










もしかしたら、ブログを極めた先には、ブログもブログの用途も忘れ果てることが……?









ねぇわ!!!オイッ!!( ´Д`)っ))Д゚)・∵.




最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


梶井基次郎「愛撫」を読んで

今日、部活で長いこと体育館にいたのですが…





体育館って外より寒くないですか??


なんででしょうね?
日当たり悪いから?
そんな気がするだけ??



6時間ものあいだ外より寒い体育館にいると、さすがに風邪ひきます…。



さぁ、そんなことは置いといて、さっそく本の紹介をしていきます。


タイトルの通り、梶井基次郎さんの「愛撫」をご紹介!!


まずは梶井基次郎のご尊顔を拝してみましょう。



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なんていうか………






強そう(確信)










文字数約3000字、10分ほどで読み終わる短編小説です。



タイトルの「愛撫」



「愛撫」と調べると、ヤラシイサイトがたくさん出てきますが、eroticな内容は一切ございません。



本来は


「なでさすってかわいがること。また、なでさするばかりに深く愛すること。」


という意味ですね。




では基次郎は何を深く愛したのか。





それは、猫です。



スコティッシュフォールド
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可愛い……






猫を愛でるお話???





いや、違います。むしろ残酷なお話と捉える人もいるかもしれません。


猫好きな人にオススメしていいのか、すべきではないのか…大変微妙なところです。




しかし、なんの配慮もなく紹介させていただきますね(強制)




基次郎はある空想を始めます。





猫の耳を「切符切り」で思いっきり「パチン!」と挟んだらどうなるだろう?


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もう、猟奇殺人犯の思考ですよね(笑)




猫好きな皆さん、少し落ち着いてください!!実際にやったわけではなく、ただの空想ですよ。





猫の耳ってどうやら、引っ張っても圧迫しても痛がらないようです。


不思議に思った基次郎はある日、猫と遊んでいるときに暴挙に出ました。










「とうとうその耳を噛んでしまったのである。」



ヤバイwwwwwwwww





「噛まれるや否や、その下らない奴は、直ちに悲鳴をあげた。猫は耳を噛まれるのが一番痛いのである。悲鳴は最も微かなところからはじまる。だんだん強くするほど、だんだん強く鳴く。Crescendo のうまく出る――なんだか木管楽器のような気がする。」




猫が痛みで鳴いても、どんどん噛む力を強くする基次郎。何を血迷ったか、その鳴き声を木管楽器と見立てる基次郎。







ただの強そうな変態です。(確信)




次に基次郎はある空想をします。



猫の爪を全部切ったらどうなるか??


猫は木も登れなくなる。爪も研げない。

猫"らしさ"を失い、絶望する。

物を食べる元気を失い、死んでしまう。


という結論に至ります。
猫好きな皆さん、少し落ち着いてください!!実際にやったわけではなく、ただの空想ですよ。(大事なことだから2回目)




しかし、実際の猫にこんなことをしたらどうだろう??



「眼を抜かれても、髭を抜かれても猫は生きているにちがいない。」




しかし、猫の爪は
「この動物の活力であり、智慧であり、精霊であり、一切であることを私は信じて疑わないのである。」



猫の爪は、その猫のアイデンティティを表すものなんですかね。


存在意義というんですかね?

私たちにも顔、お金、仕事…たくさんありますが、それを失うときの精神的苦痛は計り知れないものがありますよね。




最後は、基次郎がある夢を見るシーンです。
Xという女性の部屋に基次郎はいます。
そこにはミュルというXの飼い猫もおります。




夢の中のXは、鏡台の前で化粧をしています。



パッとXを見ると………








「彼女は、なんと! 猫の手で顔へ白粉を塗っているのである。私はゾッとした。」



基次郎
「それなんです? 顔をコスっているもの?」
「いったい、これ、どうしたの!」



X
「わかっているじゃないの。これはミュルの前足よ」彼女の答えは平然としていた。


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ただのホラーですよ。




オカルトですよ。




しかし、基次郎はさすがに「非常に嫌な気になった。」と語っています。




良かった。そこは普通の思考の持ち主で。




でも…猫の足を模した化粧品……







現実にあったら結構売れそう。








●猫の耳の話
●猫の爪の話
●ある夢の話



以上が「愛撫」の構成になっております。



ユーモア溢れるこの作品は、かの川端康成から
「一匹の猫と足とを書いたに過ぎない小品が、私を打つた所以である。作者の感覚は異常に冴えてゐる。これだけ常識を離れて、しかもおのづから温かいのは、驚くべきことである。しかし何より気品。」


感覚が冴えてて、気品があるという高い評価。



確かに、だいぶブラックな内容が色々書かれていますが、猫に対しての愛情はなんか伝わってくるんですよね。



それが「気品」というものなんですかね。





実際に基次郎は、3匹の猫と暮らす毎日であったようです。






☆猫好きな人☆
☆興味ある人☆
☆メンタルが強い人☆


ぜひご一読あれ!!!!!


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有島武郎「小さき者へ」を読んで

 

たまには違う作家を…ね!

 

 

 

今回は有島武郎の作品を読んで(正確には読み直して)みましたので、少しご紹介。

 

 

 

 

 

武郎(たけろう)じゃないですからね!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

武郎(たけお)ですからね!!!(切実)

 

 

その前に…

 

 

 

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有島さん…めちゃかっこよくないですか…?

 

こりゃモテてただろうなぁ…とかくだらないこと考えつつ、読み直しておりました。

 

この有島武郎、「惜みなく愛は奪ふ」や「生れ出づる悩み」を知っている人は多いのではないでしょうか?

 

しかし、私はあえてこの「小さき者へ」を紹介します。

 

「あえて」とか書きましたけど、ただ単純に一番おもしろいと思うってだけですけどもね(ホジホジ)

 

 

 

有島武郎は、妻・安子との間に三人の子どもをもうけ、子どもたちにたくさんの愛情を注ぎます。

 

 

しかし、そんな幸せな日常もつかの間、1917年に結核で安子は亡くなってしまいます。

 

 

 

 

 

つまり、子にとっては、唯一無二のお母さんを失ったのです。

 

 

武郎の腕だけで子どもたちを育てなければなりません。

 

そこで、安子がいない子どもたちに向けて、この「小さき者へ」を書き残したわけです。

 

 

もうお分かりですね??

「小さき者」は、武郎の子どもたちです。

 

 

 

「お前たちが大きくなって、一人前の人間に育ち上った時、――その時までお前たちのパパは生きているかいないか、それは分らない事だが――」

ここから手記が始まります。武郎が自分のことを「パパ」と称しているところから、"小説家・有島武郎"というよりも"お父さん"として執筆していることがよく分かります。

 

 

この手記を綴る理由として、こんなことが書かれています。

 

「お前たちをどんなに深く愛したものがこの世にいるか、或はいたかという事実は、永久にお前たちに必要なものだと私は思うのだ。」

 

 

私は妻も子どももいないのですが、ここのストレートすぎる表現が大好きなんですよね…。武郎の品行方正な人柄がよく滲み出てるというか…。

 

 

 

ただ、現代の子育てと同じで、"小さき者"との毎日は楽しいことばかりではありません。(子どもがいらっしゃる方はお分かりですよね!)

 

 

 

 

「何故二人の肉慾の結果を天からの賜物のように思わねばならぬのか。」

 

 

「家庭の建立に費す労力と精力とを自分は他に用うべきではなかったのか。」

 

 

こんなブラックな武郎も出てきます( ゚д゚)

 

 

しかし、そんなことを考えていると、妻が結核にかかってしまい、ついに亡くなってしまうのです。

 

 

 

「お前たちの一人が黙って私の書斎に這入って来る。そして一言パパといったぎりで、私の膝によりかかったまましくしくと泣き出してしまう。ああ何がお前たちの頑是ない眼に涙を要求するのだ。不幸なものたちよ。お前たちが謂われもない悲しみにくずれるのを見るに増して、この世を淋しく思わせるものはない。」

 

 

 

このシーンをイメージすると…

 

世の中に母親の死なんてありふれていますけど、この子どもたちにとってはたった一人のお母さん。

 

 

 

淋しい。

 

 

そんな中でも、武郎は子どもたちの世話をちゃんとしてあげるんです。

「私たちは自分の悲しみにばかり浸っていてはならない。」

この家族の悲しみが、いずれ強みになると信じて疑わないのです。

 

 

 

 

ブラック武郎はもうそこにはいません。

"パパ"として、死別した母を負い目に感じさせないように………

 

 

 

愛情いっぱいに育てる武郎。しかし、それは妻のためでも武郎自身のためでもありません。子どもたち自身のため。

 

 

武郎が死んだとき、老衰して物の役にも立たなくなったとき、いずれの場合にしろ、「お前たちの助けなければならないものは私ではない。お前たちの若々しい力は既に下り坂に向おうとする私などに煩わされていてはならない。斃れた親を喰い尽して力を貯える獅子の子のように、力強く勇ましく私を振り捨てて人生に乗り出して行くがいい。」

 

 

 

自分は捨てて、思い切り生きろ。そこに未練や後悔は何もない。自分の斃れたところから新しく歩み出せ。武郎のそんな強い信念が見えてきます。

 

 

 

そして最後の締めくくり。

 

「小さき者よ。不幸な、そして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は遠い。そして暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。
 

 

 

 

 

 

 

行け。勇んで。小さき者よ」

 

 

 

 

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☆中学校教員の一日をご紹介☆

今日は本の紹介ではなく…中学校教員の一日がどんな感じなのか、ご紹介したいと思います!!



教員を目指してる人に参考になればと思います!!

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現在、某県の某中学校で国語科の教員をしております。ちなみに今年で2年目なので、まだまだペーペーですね。




これからは教育関係のことなども、どんどんブログにしていきたいと思います!



ちなみに、教員採用試験を現役で合格した過去もあるので、採用試験についても記事にしていきます!オススメの参考書などもね!


教員志望の大学生などの参考になればと思います。




それでは、今日の流れを!




[5時:起床]
☆起床時間はあまり変わりませんね…ほぼ毎日5時です。朝早めなのは部活の朝練があること、授業の準備、朝の方が効率よく仕事ができること、などが理由ですね。



[6時30分:学校到着]
☆まずはパソコンつけて、ちゃちゃっとできることはやってしまいます。印刷とか、軽い提出物とか…。



[7時:朝練開始]
☆部活の朝練が始まります。ここではとにかく指導ですね。事務仕事関係は一切できませんので。
☆申し訳ありませんが、一応何部なのかは伏せさせていただきます。



[8時:朝練終了、登校指導開始]
☆朝練が終わって、登校指導に急いで行きます。まぁ挨拶運動ですね。しない教員もいるのですが…(ボソッ)



[8時10分:打ち合わせ開始]
☆教員が一日の流れや生徒に伝えることを確認します。



[8時20分:打ち合わせ終了、ダッシュで教室へ]
☆ここはもう本当に時間勝負です。なんで朝からこんな走らなきゃいけないんだって思いながら毎日教室へ(笑)



[8時25分:朝の会開始]
☆打ち合わせたことを生徒たちに伝え、今日の目標、教員の思いを5分で話します。



[8時半:朝読書や朝清掃]
☆行事などによっても変わりますが、読書か清掃をします。



[8時50分:1時間目開始]
☆ここまでも、シビアなスケジュールなのですが、ここからはさらに分単位で動かなければならないスケジュール。6時間目まで駆け抜けます。



[15時35分:6時間目終了]
☆授業をすべてこなし、ホッと一息



[15時45分:帰りの会開始]
☆ラストスパートです!次の日の予定、一日の反省、教員の思いを話します。叱ることもよくありますが、基本的には褒めて一日を締めくくります。



[16時:帰りの会終了、急いで部活へ]
☆クラスが終わったら次は部活。ここらへんで体力がキツくなってくるのを感じます(笑)
☆部活は、時期にもよりますが夏は18:00まで。冬は17:00までです。



[17時:部活終了]
☆朝練開始から10時間、やっと肩の荷を降ろすことができます。私はここで5分くらい休みます。




[17時〜:さまざまな事務仕事]
☆部活の運営、クラスの運営、保護者との電話、授業の準備、校務分掌の仕事、学年の仕事、学級通信作成、成績、生徒指導。やれることは急いでやっちゃいます。終わりが見えないので、本当に猛スピードでこなしていきます。



[20時:帰宅]
☆今日は少し早めに帰れました。基本は21時〜22時の間になります。
☆というか最近はブログ書くために、「早く仕事終わらせなきゃ!」と思うようになりました(笑)



[24時までには就寝]
24時を超えることはあまりありません。最低でも5時間は寝ないと本当にキツイので。。








一日の忙しさは、時期などに大きく左右されるので、これが絶対だと思わないでくださいね。変動が本当に激しいです。あくまで参考までに。





ちなみに、うちの学校の勤務時間は8:10〜16:40です。










超ブラック!!!!!!!!!!





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