有島武郎「小さき者へ」を読んで
たまには違う作家を…ね!
今回は有島武郎の作品を読んで(正確には読み直して)みましたので、少しご紹介。
武郎(たけろう)じゃないですからね!!!
武郎(たけお)ですからね!!!(切実)
その前に…
有島さん…めちゃかっこよくないですか…?
こりゃモテてただろうなぁ…とかくだらないこと考えつつ、読み直しておりました。
この有島武郎、「惜みなく愛は奪ふ」や「生れ出づる悩み」を知っている人は多いのではないでしょうか?
しかし、私はあえてこの「小さき者へ」を紹介します。
「あえて」とか書きましたけど、ただ単純に一番おもしろいと思うってだけですけどもね(ホジホジ)
有島武郎は、妻・安子との間に三人の子どもをもうけ、子どもたちにたくさんの愛情を注ぎます。
しかし、そんな幸せな日常もつかの間、1917年に結核で安子は亡くなってしまいます。
つまり、子にとっては、唯一無二のお母さんを失ったのです。
武郎の腕だけで子どもたちを育てなければなりません。
そこで、安子がいない子どもたちに向けて、この「小さき者へ」を書き残したわけです。
もうお分かりですね??
「小さき者」は、武郎の子どもたちです。
「お前たちが大きくなって、一人前の人間に育ち上った時、――その時までお前たちのパパは生きているかいないか、それは分らない事だが――」
ここから手記が始まります。武郎が自分のことを「パパ」と称しているところから、"小説家・有島武郎"というよりも"お父さん"として執筆していることがよく分かります。
この手記を綴る理由として、こんなことが書かれています。
「お前たちをどんなに深く愛したものがこの世にいるか、或はいたかという事実は、永久にお前たちに必要なものだと私は思うのだ。」
私は妻も子どももいないのですが、ここのストレートすぎる表現が大好きなんですよね…。武郎の品行方正な人柄がよく滲み出てるというか…。
ただ、現代の子育てと同じで、"小さき者"との毎日は楽しいことばかりではありません。(子どもがいらっしゃる方はお分かりですよね!)
「何故二人の肉慾の結果を天からの賜物のように思わねばならぬのか。」
「家庭の建立に費す労力と精力とを自分は他に用うべきではなかったのか。」
こんなブラックな武郎も出てきます( ゚д゚)
しかし、そんなことを考えていると、妻が結核にかかってしまい、ついに亡くなってしまうのです。
「お前たちの一人が黙って私の書斎に這入って来る。そして一言パパといったぎりで、私の膝によりかかったまましくしくと泣き出してしまう。ああ何がお前たちの頑是ない眼に涙を要求するのだ。不幸なものたちよ。お前たちが謂われもない悲しみにくずれるのを見るに増して、この世を淋しく思わせるものはない。」
このシーンをイメージすると…
世の中に母親の死なんてありふれていますけど、この子どもたちにとってはたった一人のお母さん。
淋しい。
そんな中でも、武郎は子どもたちの世話をちゃんとしてあげるんです。
「私たちは自分の悲しみにばかり浸っていてはならない。」
この家族の悲しみが、いずれ強みになると信じて疑わないのです。
ブラック武郎はもうそこにはいません。
"パパ"として、死別した母を負い目に感じさせないように………
愛情いっぱいに育てる武郎。しかし、それは妻のためでも武郎自身のためでもありません。子どもたち自身のため。
武郎が死んだとき、老衰して物の役にも立たなくなったとき、いずれの場合にしろ、「お前たちの助けなければならないものは私ではない。お前たちの若々しい力は既に下り坂に向おうとする私などに煩わされていてはならない。斃れた親を喰い尽して力を貯える獅子の子のように、力強く勇ましく私を振り捨てて人生に乗り出して行くがいい。」
自分は捨てて、思い切り生きろ。そこに未練や後悔は何もない。自分の斃れたところから新しく歩み出せ。武郎のそんな強い信念が見えてきます。
そして最後の締めくくり。
「小さき者よ。不幸な、そして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は遠い。そして暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。
行け。勇んで。小さき者よ」